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決定不能のボタン

Posted: 2026.02.24 Category: ブログ

休日、遠方の図書館まで足を運んだ午後のことです。待ちわびた気持ちで「読もうと思っていた本」を蔵書検索にかけ、カウンターで申請してから実際に本が出てくるまでの、あの沈黙に満ちた時間の空虚さといえば、受け取ったにもかかわらずどこにも足跡を残せないまま、その場をあとにしたときの浮遊感にはどこか匹敵しないものでした。自分が探していたおそろしく分厚い本は、フランスのポスト構造主義と呼ばれる領域にある著者のもので、自分は彼のミシェル・ド・モンテーニュについての言及に、命がけけ気持ちで目を落としたつもりでしたが。。かけた労力とは比較できるような感想がまるで出てこなかったのです。

『こちらからことをしかけて怒らせてしまった相手の人びとが、復讐の権利を手に、われわれをとりおさえてどのような処置でもとれるという場合、その心をやわらげるもっともふつうの仕方は、服従の意をあらわし、同情と憐憫に訴えて彼らを動かすことだ。しかし、思いきり勇敢な態度、毅然としたふるまいが、これとまったく反対の手段ではあるが、同じ結果をもたらしたこともよくある』(『エセー』)

『エセー』という書物には、ある出来事が真実になりそうなときに同じくらい強烈な別の真実がそっと置かれるという、反証にぶつかるときの人がうろたえる瞬間の面白さがあります。読み手の決定不能に耐える姿勢が問われるとき、どうすれば良いかわからない静かな決定不能を抱えたままひとつずつエピソードを読んでいると、個別の論旨はため息が出るほどよく出来ているのに、それの反証としてまた極端によくできた事例に、ことごとくぶつかってしまうのです。次第に「ものは言いよう」というか「事実は見方」というか、それがあまりに絶え間なく自由に続くので、もはや笑ってしまうような宙吊りの流れのなかに自分が吸い込まれてしまいます。

『アレクサンドロスは、これほど高いものについた勝利ですっかり気がたっていて、というのも、ほかにもかずかずの損害をうけたうえに、彼自身二つの生々しい手傷を身にうけたところだったからだが、ベティスにむかってこう言った。「ベティスよ。おまえは望んだとおりには死ねないのだぞ。捕虜にたいしてひとが思いつくかぎりのあらゆる種類の拷問を加えておまえを苦しませてやるから、そのつもりでいろ」と』(『エセー』)

毅然とした態度が慈悲を誘うこともあれば、狂気を呼び起こすこともある。この残酷なまでの予測不能性は、同じく正当化の無限可能性でもあるし、そこについては、やはりことばがどういうふうにも言えてしまうこと、それを可能にしていることについてのあるしゅの業を思わされずにはいられないものです。ひとつの固定的な条件からは、それとはまったく正反対の結論を引き出す事ができるし、認識は脚色であるという言語がもつさけがたい自己反転構造がわかっていれば、「自分のいうこと」なんて本当に(文字通り本当に)とるに足らないのに、それが一番危険であるというところに必ず触れることになります。そこでの態度が、倫理です。

『相手は、落ちついた顔色でいるばかりか、傲然とした高らかな構えで、このような脅し文句にひとことも返事をしなかった。すると、アレクサンドロスは、彼の誇り高い強情な沈黙を見てとり、「膝を折っていないのか。なにか哀願するようなことばを洩らさないのか。よし、わかった。それならば、ベティスよ、おまえの無言を破ってやろう。おまえからことばを吐き出させることができないのなら、うめき声だけでもあげさせてやるぞ」と言って、怒りを憤怒に変え、彼の踵に穴をあけるように命じ、生きたまま戦車のうしろにくくりつけて引きまわさせ、からだと手足をずたずたにひきちぎらせた』(『エセー』)

モンテーニュがきわめて圧倒的だったのは、言葉を信用していないのに、ことばを信じて書き続けることだったと私は思います。そのことは、言うならば言葉の「可塑性」(「可能性」ではない)を知り、自己正当化の危険を知り、それでも考え、ほとんどことばなきことばとして語ることでした。しかも、それは誠実であればあるほど、ほとんど「言わないこと」(デリダ)に近づいていくのです。プルーストもそうでした。

めまいがしそうなほど大きな図書館の外に出る手前、紙カップで出てくる「コーヒーの販売機」の前に立つ私は、なぜか「砂糖あり」と「砂糖なし」の「ボタンが逆」になっていることに気がつきます。そして、足を止めます。本来の配置を信じるのか、あらわれているものごとの逆転を信じるのか。。? 

『ある奴を褒めようと思えば、徹底的に褒めることができるんだよね。貶そうと思っても、徹底的に貶せるんだね。しかも、ちゃんと首尾一貫して、全く合理的にね。だから、僕は論理学性そのものは信じられないんだ。そういうものを決めるものは何かっていうと、好き嫌い、最終的にはそれしかないんだよ』(『文学の現在を問う』)

注がれてしまった甘いコーヒーを飲みながら、いくつかのことを考えました。甘いコーヒーの向こう側にあるもの、それはおそらく、自分を成り立たせているのに自分を崩そうとしているもの、つまり立場とか役割だとか、そういうもののことでした。本来あるべき配置を信じるのか、現れている逆転的な何かを信じるのか? そのどちらを選んでも世界が等しく私を突き放しているように思えたのは、モンテーニュが対峙し続けたものについて、注がれた甘いコーヒーを通じてわずかに触れたからかもしれないのでした。

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